児童養護施設から自立した話

児童養護施設出身の筆者が綴る大したことのない日常の話

父親と連絡を取った

父親と連絡を取った

 

年末年始、うちに来るか?

今年は引っ越しを控えてるから、年末年始はやめとく

そうか、それなら、今度いつ来るか?

3月くらいなら、時間作れると思う

そっか、ならその時会おうか

そうやね

そういえば、お歳暮届いたぞ。ありがとな

うん。まあ、気持ちやけんね

そんなに気を遣ってくれんでもいいぞ

まあまあ、気持ちやけ

ありがとな。おいしくいただくわ

 

毎年、父親とは連絡を取り合っている。年末年始は、毎年遊びに行っている。そこで、お酒を飲んだり、おいしいものを食べたりしている。母親には内緒で会っている。

 

両親は、私が小学校1年生の時に離婚した。理由はいろいろあったみたいだが、お金関係のトラブルが中心だったらしい。父親と離れた後、何度か父親と会ったりすることがあったため、施設に入るまで交流があった。

私は、高校卒業まで、父親の姓を名乗っていた。その理由は定かではないが、私が小学校にいたから、母が配慮したらしい。当然、母親も父の姓を名乗っていた。高校受験を終えた冬、祖父の死後、母から連絡があった。

「お父さん、おじいちゃんの葬式に来んかったんよ。ひどい人よね。連絡したとに、『おれが言って、だれにお悔やみ言わんばいけんとや!関係なかやろ!葬式なんか行くか!』ってよ。最悪。あんな人の名字を名乗りたくない。もう、お母さんの名字に戻すけど、よかやろ。」

私にとっては、名字だのなんだのに興味はなかったし、どうでもよかったから、母親の好きにさせたけど、妹は、長年連れ添った姓が変わることにひどく抵抗感があったらしい。「父さんも、ひどい言い方するな。葬式ぐらい出ればいいのに。」となんとなく思った程度で、特に気になることはなかった。母から「2度と父親と会うな」と言われた。

 

大学に進学し、自分の価値観の狭さを痛感し、世界の広さを知ったとき、なんとなく父親のことが気になった。携帯電話の番号は昔から持っている手帳にあったので、電話してみた。父親は、職業を変えて、それなりに生活しているらしい。私は父親に会いに行った。

 

父親は、少し髪が薄くなっていた。背丈も私の方が大きくなっていた。相変わらずヘビースモーカーで、酒を飲んでいた。父親の波乱万丈な人生と、その面白い語り口に、私は笑いが尽きなかった。母親との確執も聞いた。私達兄妹を施設に入れたことを恨んでいると。「なぜ、施設に入れる前に、俺に言ってくれなかったのか」と。私が母の姓に変わってしまったことを悲しんでいた。家柄のことをひどく気にしていた。

 

私は、そんな父親を嫌いになれなかった。確かに、父親は私達兄妹から離れていったし、何か積極的に育児を手伝ってくれたり支援してくれたりしなかった。けれど、なんとなく、父親の「我が子に対する愛情」を感じた。父親にとって、実の子どもは私達だけ。血がつながった唯一の子ども。その日の飲み代や交通費、お土産代すべて、父親が出してくれた。そんなに稼ぎのある仕事をしているわけではないのに。そんなこと、母親にもしてもらったことなかった。父親は「親なんだから、これくらいして当然だろ。」と言った。

 

私は、父親と弟妹を繋いだ。「母さんには言うな。ただ、今後付き合いを続けるかどうかは、自分で判断すること。嫌だと言うのに、しつこく連絡を取るようなら、俺が間に立って引き離す。だから、会ってみて。」結果として、私達兄妹は、父親と定期的に連絡を取り、年末年始にみんなで飲み会をしている。

 

 

母親に内緒で父親に会うような、歪な親子関係ではあるけど、それぞれの家族には、それぞれの文化があるように、私達兄妹にとっては、それが当たり前になっている。私たち兄弟は、それに納得している。それでいいじゃないか。

 

私は、私の人生を、父親や母親に邪魔させるつもりはない。私の都合で、両親と関わるだけだ。そういう人生にできたのは、ある意味幸運だったのかもしれない。

 

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今年の年末は、妻の実家でまったりと過ごそう。普通の家庭の中で、ね。

 

 

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