児童養護施設から自立した話

児童養護施設出身の筆者が綴る大したことのない日常の話

差別は人の心が生み出す

耳に障害を持っている友達がいて、その子に「聞こえないことで、それを強みにできる方法はないか?」と尋ねたことがあります。私なりの意見を伝え、その子からもいろいろ意見をもらって、とても有意義な時間になりました。私とその子に、特別に何か起きたわけではなく、当事者間でケンカになったわけでも何もありません。しかし、周りから「そんな言い方したら、傷つくんじゃないか」と言われました。

 

もしかしたら、その子と話した内容の中で、私が怒られるようなことを言ってしまったのかもしれません。しかし、その子から指摘はなく、その後いつ会って話しても仲良くできています。

 

 

 

 

 

私は、施設にいたことを特に説明しません。生い立ちが多分普通じゃないので、説明に時間がかかるし、面倒くさいからです。

でも、施設にいたことはしょうがないことだし、施設出身であることに触れられても、それ自体はなんら問題ありません。(トラウマ的なことに触れられるのはNGですが。

 

私が家族のことを聞かれ、施設にいたことを言うと「なんか、ごめんね。」と言われることが多々あります。こちらこそ、変な気を遣わせてごめんね、と思っています。

 

しかし、誤解を恐れずに言うのならば、そんな気遣いが、むしろ差別されている印象を受けることがあります。

 

 

 

 

日本で暮らす多くの人は、人に優しく、相手の気持ちを考えて話してくれます。家族でいろいろあった人に、家族の話題を振らないよう、慎重に会話が進んでいく。

そもそも、家族の話なんて、100家庭あれば100通りあります。みんなそれぞれ良さがあって大変さがあるはずです。親が居なくて施設で育った、というだけで、ちょっと個性的なだけです。

 

でも、「気を遣うことが、差別されてるように感じる」人もいます。少なくとも、私はそう。できれば、私の生い立ちのような話は、とりあえず聞くだけ聞いてもらいたい。そして「大変だったんだね」と共感して貰えれば、これ以上何もいらないな、と思います。

 

 

私が一番信頼している中学校からの友達は、施設にいたことについて、「ふーん」と言い、私自身の性格や行動の長短を認めてくれて、その上で関わってくれます。生い立ちなんか関係なく、私自身を見て、仲良くしてくれています。その友達には、結婚式のスピーチをお願いしました。

 

 

 

 

 

 

そして、私たち施設出身者側もまた、自ら差別を生み出している可能性があります。

 

私たちにあるのは、"差"ではなく、"家庭環境の違い"です。人と違うことは当然のことですから、人との違いなんていちいち考える必要はありません。差なんて、何も考えなくてもいいんです。

しかも、施設にいる子でも、人それぞれ違うじゃないですか。勉強できる子もいればスポーツできる子もいる。優しい子もいれば怒りっぽい子もいる。施設や社会で上手く行った子もいれば、そうでない子もいます。みんなそれぞれ。

 

 

 

 

親に恵まれなかった、親から見捨てられた。その悲しみは痛いほど分かります。

でも、「親がいなかったから、私は周りと違うんだ。」と、自分から率先して自分を差別してはいけません。あなたには、あなたの良さがあります。いつも通り、生きてください。

 

 

 

 

 

 

 

生まれた地域、性別、趣味嗜好などは、生い立ちと何ら関係ありません。もっと、私たち自身、生身のこの姿だけを見てほしい。そうおもいます。

何かしらハンディや辛い過去を持った人は、共感していただけるのではないでしょうか?