児童養護施設から自立した話

児童養護施設出身の筆者が綴る大したことのない日常の話

家柄の話

いまだに、「家柄」を気にする人が多いのは事実です。

 

 

 

「家柄を見る」行為は、我々のような施設出身者には、つらいものがあります。

「家柄を見る」というのは、「その子の親を見る」という行為です。親を見て、子の将来を推測するのです。なんと愚かな行為か。

 

 

 

職員室に居ても、そんな話を聞きます。

「あの子の親は公務員だって。よくできるわけだよね。」「その子の親、クレーマーだから、子どもも甘えてるんだろうね。」「うちの◯◯さん、親が先生なんだって。変わった子だと思ったのよ〜」

 

おい、ブーメラン刺さってるぞ、と思いながら会話に参加せず、聞き流していました。

 

 

 

 

悲しいけれど、どんな人かわからない人を推測するには、親を見ることは便利なことなんです。「蛙の子は蛙」というくらい、親は子を映す鏡です。実際、子どもが親に似るパターンも多いのは事実なので。

 

特に、結婚になると、「家柄」を気にする人が多いことを目の当たりにします。

実は、私は大人になって、父親に言われたことがあります。

「結婚する前に、俺の苗字に戻さんか?あの家と繋がることになると、相手方に断られはしないか?」と。

結婚は、家族付き合いが始まるということ。それを考えてそう言ってくれたのですが、いろいろ失礼な話だと感じました。

 

 

 

 

では、施設出身の私たちは、どう見られるのでしょう?

 

親いないけど?じゃあ、施設職員を見て判断する?それとも実親?里親?そもそも親いないやつは相手にされない?ん?どう?

 

 

 

もちろん、一個人としてしっかり見てくれる大人はたくさんいます。しかし、家柄で判断する人は未だに一定数いることも事実です。家柄がない子は、推測できません。どんな人間か推測できない人は、恐怖があるでしょう。そして、距離を取られるのです。田舎であればあるほど、その考えが強い傾向があると思われます。

 

 

 

 

では、

私たち施設出身者ができることは何か?

それは、自分を磨き続けることです。家柄も、親も、跳ね返すくらいに努力するしかないのです。生まれながらにそれなりの手札を持っている奴らにはない、自分にしか手に入れることのできない切り札で対抗するのです。

 

そして、家柄を抜きにして、自分を見つめてくれる人を探しましょう。自分の生い立ちを嫌う人がいれば、気にせず関わってくれる人も必ずいます。理解してくれる人も、同じ境遇で悩んでいる人も、少なくないですよ。

 

 

 

私は幸い、妻の両親には、私自身を見て判断してもらい、歓迎していただきました。私はとても運がよかった。私は今、妻の姓を名乗っています。

 

 

 

 

認められず苦しんでいるそこのあなた。

同志はいますよ。一通り苦しみを吐き出したら、歩き出しましょう。未来は自分から掴みに行きましょう。