児童養護施設から自立した話

児童養護施設出身の筆者が綴る大したことのない日常の話

「教える」という傲慢

人は、生きていく為に必要なことを学んで生きていきます。そうして人は成長し、そして、学んだことを人に教えることで、次の世代が育ちます。

 

教える人は、教えられる人より知識や経験が多い。これは、先生と生徒という関係でなくても成立します。職場の先輩は、新人に物事を教えなければいけません。人が共存していく上で「教える」ことは、必要な行為です。

 

 

でも、「教える」という行為は、時に人を傲慢にします。

 

 

教える側は、常に優位です。知識も経験も権力さえも、常に優位に立つのです。

それ自体は悪いことではないのですが、それを「教える側は偉い人」と勘違いする人がいます。教えることで優越感に浸り、意図的な上下関係を構築して、支配的になることがあります。パワハラやセクハラ、体罰といった類の問題は、この勘違いによって生まれるものだと、私は感じています。

 

 

 

 

そもそも、「教える」ことは、学ぶ側が存在して成り立ちます。スポーツに勝ち負けがあるように、教えることと学ぶことは、表裏一体です。学びたい、教わりたい、と思う人がいるからこそ、「教える」という行為に価値が生まれるのです。

 

そして、教えることは、押し付けることでもありません。学びたい人の要請に合わせて、教える。これが正しい「教える」という行為です。

 

 

 

 

 

しかし、残念なことに、「教える側に立つ優位」を悪用して、傍若無人な態度をとる人間が一定数います。一部教員が偉そうに子どもの悪いところを一方的に指摘したり、一部上司が部下に己の考え方一つで奴隷のようにこき使ったり、上下関係を利用してプライベートな関わりや性的なことを強要したり、好き勝手に罵ったり。そんなの、押し付けであり、脅迫であり、侮辱であり、ただの罪です。

 

 

 

 

 

教える側にとって必要なことは、「相手のためになるかどうかを考えること」です。自分が教えることで、相手のためになるか。それを考えるだけで、教える側も謙虚になれるし、その後の関係も良好になり、学んだ側に感謝されます。いいことしかありません。

 

 

そして、教える側に知っていて欲しいのは、教えることで、自分も学ぶこともできるということです。私自身、教員として働いた中で、子どもたちから学ぶことが多く感じました。教えた経験が学びになり、また新たな知見に変わります。こんな素敵なことはない、と思っています。

 

   

 

 

 

綺麗事でしかないのですが、この世の中の「教える」という行為が、傲慢な行為として広まって欲しくないというのが、私の考えです。学び、知識を蓄え、それを教える。そして、自分が成長し、新たな知見が生まれ、人が育ち、社会が発展していく。そんな世の中になればいいな、と思っています。

 

分からないときは学び、分からない人がいれば教える。答えが出ないときは、みんなの知恵を絞って正解を探す。独りよがりにならず、助け合いが出来る世の中になって欲しいな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

学びたい人のために、教える。

忘れずに。

 

 

 

自戒の意味も込めて。