児童養護施設から自立した話

児童養護施設出身の筆者が綴る大したことのない日常の話

今の私が在るのは、施設のおかげ

いつも不満とかなんとか多いので、今日は施設への感謝を述べたいと思います。

 

 

 

私は、母子家庭による貧困、母の精神疾患による入院により、しばらく子どもだけで生活していました。それが周囲に察知され、施設入所に至ったわけです。

母は、児童相談所児童養護施設の存在を、長いこと知りませんでした。入院中に医者や別の患者に「子どもたちは、自分たちで生活している」と話したことがきっかけとのこと。そのせいか、私たちは、母が入退院を繰り返し初めて、施設に入るまで、約2年かかりました。

 

 

おそらく、私たち兄妹が施設に入っていなければ、大学進学はおろか、高校自体も続いていなかったかもしれません。また、公的支援を知らない母が私たちを大学に送り出したところで、お金に困り、退学して闇落ちすることが目に見えていることでしょう。

 

小さな自慢ですが、私たち兄妹は、学年180人くらいの中学校で、上位の成績を修めていました。3人とも、テストで学年で一桁の順位を獲得したことがあります。それなりに勉強はできましたし、3人とも、県内では名のある公立進学校に進みました。

 

こんな私たちが、大学に行って、それなりに自立することが出来たのは、施設に拾われ、自分たち自身のことに注力できたから。そして、大学進学について、経済的支援や物資補填をしてもらえたからです。

 

 

 

社会的養護については、様々な課題があり、まだまだ不十分とは言えません。しかし、こうして支えられ、生き延びることができた子どもがいることは、紛れもない事実です。

少なくとも、私たちはそうでした。

 

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

私は元気です。

誰が何と言おうと

私が大学時代書いた曲の歌詞にこんなフレーズがあります。

 

 

夢は勇気をくれる

現実は僕を裏切る

君は優しさをくれる

世界は富を追いかける

人の塊が大きくなるほど

弱くなっていくものがある

僕が僕である意味を知りたいだけなのに…

 

昨今のコロナウイルスに関する問題が世論を動かしている最中、昔書いた自分の歌詞が胸に突き刺さる。

当時の私は、この社会にいろんな不満がありました。それは、制度に対しても、世間の常識に対しても。私が目指している道を阻害するものがあまりにも多かったことが原因です。私の周りの人は、こんなにも素敵な人で溢れているのに、集団になった途端、その様子はガラリと変わってしまうのです。

 

 

みなさんは何を目指して生きていますか?

 

 

施設にいた当時、私は幸せな居場所を得ることができたと思っていました。衣食住が確保されて、好きなだけ勉強もギターもできました。それが、今に生きています。

大学に出て、そこで初めて、様々な人種と出会い、広い世界を知りました。(それでも、狭い世界だったのですが)

広い世界を知れば知るほど、何をしたらいいのかわからず、リスクを恐れ、何もできなくなっている自分がいました。

 

 

 

 

 

コブクロの「虹」という曲の歌詞にこんなフレーズがあります。

 

3色のクレヨンで 何だって描けたのに

100色の絵具 目の前に 被写体が決まらない

 

私が目指していることは、結構シンプルです。それなのに、いつか手段が増えすぎて、どの道具を使っていいか迷って、ただただ時間だけが過ぎているように感じています。

 

 

 

 

私は、ただ、楽しく暮らしたいだけ。お金は大事ではなく、ただ、楽しければそれでいい。社会の目を気にすることなく、のびのびと出来ればそれでいい。

 

 

 

 

 

私の人生は、私のもの。

さあ、今日も1日が始まる。

100色の絵具の中から、三原色だけを選んで、1日を創造していきたいと思います。

 



公務員最終日

今日、仕事終わりました。公務員辞めました。

 

なぜか今日に限って、うちの係が大忙しで、緊急対応しまくり。

そんな中、私は残務処理しかしていませんでした。「あとは任せて」と言われ、私の地区の緊急対応も、全てやってくれました。

 

係員が対応に追われている最中、最後の挨拶を終え、職場を去りました。

 

 

 

 

 

思い返せば、児相の1年間は過酷なものでした。保護者から罵声を浴びせられ、子どもの涙を見て。腹の探り合いをしながら承諾を得たり、失敗したり。苦難の連続の中で、多くのことを学びました。それは、児相のいいところも悪いところも。教員のままでは知ることのできない部分をたくさん知りました。人とは違う経験をしましたので、どこかで生かしたいと思います。

 

 

 

 

さあ、これから何をするか。

実は、今、やろうとしていることが2〜3あります。何をするかは、まだ家族にも話していません。ですので、ここでも公表しません。

まあ、なにかのきっかけでわかるかもしれませんね。

 

 

 

当ブログは、コエールが終わるまで続けようと思っています。更新頻度はかなり減ります。まあ、たまーに覗きに来てくれたら嬉しいです。

 

 

「生きているだけで丸儲け」明石家さんま

 

 

 

明日からも元気に生きるぞー!

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人は人を傷つけて生きている

私たち人間は1人では生きていけません。必ず誰かのお世話になっています。衣食住に始まり、仕事から娯楽まで、何を取っても共存しないと成り立たないものばかりです。

 

共存していく中で、衝突することもあります。我慢しなければならないこともあります。だから、傷つくこともたくさんあります。そして、傷つけてしまうこともたくさんあります。

 

私たちは、人を傷つけて生きています。

 

それ自体はしょうがないことなんです。共存するためには、ぶつかりながらも乗り越えていかなければならないのですから。

 

体についた傷は、そのままにしておくと悪化して、命に関わる可能性があります。だから、消毒したり、傷口を保護したりして、自然治癒力で傷が治るようにします。

 

では、心の傷はどうでしょうか。実はこれも同じで、そのままにしておくと悪化します。だから、消毒したり保護したりしなければなりません。

しかし、体の傷と違うところは、傷口が見えないところです。どんな人にも、心の傷は見えません。だから、見ず知らずの人に、見えない傷口をグリグリえぐられて、気づいたときには塞がらないほど傷が広がっていることがあります。

 

心の傷を消毒するには、「受容と共感」が必要です。誰かと擦れてついた傷は、他の誰かに容認してもらうことで、傷に付着したバイ菌が取り除かれます。

心の傷を保護するには、「自分の全てを受け入れてくれる居場所」が必要です。一般的に言えば、親や兄弟といったところでしょうか。どんな傷を受けても、当たり前に居場所があることが、傷口の保護につながります。

 

何度傷ついても、何度か経験すれば、傷つかなくてもいい方法を見つけることができます。また、適切な処置を続ければ、多少のダメージでは血が出ない皮膚になることもあります。そうして傷つき続けても、回復しながら傷つかないようになっていきます。

勘違いしてはいけないのは、あくまで適切に処置したら、今後うまく対処できる、ということです。傷口を放置したままでも回復する人も中にはいます。しかし、回復できなかった人は、その傷が一生残るものになるかもしれないし、命に関わることもあります。

 

また、すでに傷が一生のものになっている人も大勢います。心の傷はトラウマになり、精神疾患や情緒障害を引き起こしている人もたくさんいます。

そして、この記事で傷ついてしまう人もいるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

私が言いたいことは、人は生きているだけで、誰かを傷つけてしまっているということです。その中で、自分を傷つける人もいます。

だから、人の心の傷を癒す方法を学び、保護してもらえる居場所を確保しないといけません。

 

 

 

 

それが、十分に与えられなかった人がいます。それが、社会的養護を必要としている子どもであって、そういう経験をした大人です。

 

 

 

 

 

私の目標は、まず、自分が満たされること。そして、傷ついた人を受容できる人間になることです。

 

理想ばかりで、現実的でないと言われれば、それまでかもしれません。それでも、私にできることはしてあげたい。そう思う、今日この頃でした。

※文章に太字も斜体も入れていないため、見にくい文章になっています。駄文ですみません。

 

 

 

今日は雨でした。

 

 

 

私は昔から雨が好きです。

  

 

 

 

普通水は海や川にあるものなのに、大量の水が空から降ってくる。学校で習った理屈は分かっているのですが、未だに不思議でなりません。この水は一体どこから来たのだろう?遠い海の果て?それなら、ここで私と出会った雨は、運命的な出会いです。そして、またすぐにサヨナラ。手のひらに乗った雨粒を見るだけで、とても深い世界に引き込まれます。

 

それから、雨の音が好きです。雨粒が屋根に当たる音。雨樋から溜まった水がどんどん流れる音。石や葉に当たってザーっと砂嵐のようになる音。普段なら遠くから聞こえるはずの鳥の鳴き声が聞こえてくるのに、雨の日は聞こえない。と思ったら、場違いな鳥の鳴き声も聞こえてくる。たまに聞こえる車のエンジン音がいつもより遠くにあるように感じられるような、静かな騒音。目を閉じて楽しむことができます。

 

そして、雨は、センチメンタルな気持ちになります。雨降りの日の空は灰色。雨が涙を連想させ、悲しい気持ちを引き出します。失恋したな、あの時つらかったな。裏切りにも遭ったな、しんどかったな。窓の外から雨を眺めるだけで、ドラマの主人公のような気持ちになれます。私の場合、雨を眺めていると、想像力が増して、創作意欲に駆られます。それが文章になったり歌になったり。

 

 

天気と、人の感情は似ています。

晴れの日は、ただ嬉しくて笑顔が出ます。たまに涙が出て、天気雨のようになります。喜びの感情はいろいろな感情をかき消して表に出てきます。太陽の光のように。

雨には、いろんな種類があります。大雨、小雨、豪雨、雷雨、霧雨、俄雨、叢雨…。それと同じように、人の悲しみは複雑なことが多いように感じます。喧嘩、失恋、裏切り、不満、陰口、死…。降り続く時もあれば、一時的な時もあります。

 

雨と涙はつながっています。悲しい時に流れる涙は、流し切ってしまえば、スッキリします。雨上がりに晴れて虹がかかるのと同じです。

 

雨は人にとって必要なものです。生に必要な水は、雨によって得られます。実は、悲しみは人間の生に必要なものではないかと、私は思っています。悲しみを知っているからこそ、そこにある喜びに気づき浸ることができるのです。

 

雨ばかりではいけません。降り続く雨は、川を氾濫させて人々を飲み込みます。心も同じ。悲しみが溢れると、生きていけません。

 

逆に、晴ればかりでもいけません。日照りが続けば大地が枯れ、誰も生きることができません。なんでもかんでも喜んでいると、心が枯れて、いつのまにか身が滅んでいます。

 

 

この世界は、絶妙なバランスで成り立っています。表裏一体のものが、お互いに同じ力で引っ張り合っているから、成立しているものが山ほどあります。

天気もそう。晴れや雨がお互いを補完し合っているから、植物が育ち、動物が生きられる。

 

 

 

 

 

 

そして、私たちの心もそう。喜びを知っているから頑張れる。悲しみを知っているから優しくなれる。

悲しみに明け暮れて、どうしようもないとき、雨を眺めてみてください。そして、雨と涙で心を洗い流してみてください。

 

 

 

 

 

 

 

私は、そうして乗り越えてきました。

要請

 

最近、「今週末の不要不急の外出自粛を要請」が話題ですね。

 

日本ではどんどん感染拡大していますし、あの志村けんさんも、コロナ陽性とのことでした。これだけ広がっているのだから、外出は必要最低限にしたいですね。私は、正直、感染経路なんて特定できるわけないと思います。症状が出ない人もいるそうですから。

 

ちょっと気になって調べてみました。「要請」とは何か。

 

ようせい
【要請】
1.
《名・ス他》必要な事が実現するように、願い出て求めること。
 「立候補を―する」

 

つまり、強めの「お願いします!」ってことですね。

 

ちなみに「自粛」も調べてみました。

 

じしゅく
【自粛】
 
《名・ス自》自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。
 「報道を―する」

 

ということは、偉い人が言っているのは、「必要なくて急用でない外出は、つつしむように、お願いします。」ってことなんですね。

 

ふむふむ。意味は分かりました。

 

まあ、国や地方自治体の偉い人がお願いしてるんだから、ある程度言うこと聞かないといけませんよね。

しかし、私は「お願い」ということに納得が行きません。

いろいろ調べてみましたけれど、この「要請」には、法的な拘束力も罰則もないそうです。あくまで「お願い」なので。しかも、自分からつつしんでくれ、といった内容なので。

 

本来、会社やチームのトップは、抱えている部下やメンバーの責任を負うものです。うちの職場の上司も「こうやって」と仕事を指示したら「何かあったら、私が責任とるから。」と言ってくれます。

 

そう、「要請」は「指示」ではないのです。

 

国や自治体の長は、そこに住む国民や市民の責任を負います。本気で感染拡大を食い止めたいなら、「外出禁止の指示」とか「外出禁止命令」とかでないといけないはずです。指示や指示に従わずにコロナ感染したなら、「言うこと聞かなかったお前が悪いんだろ」と言えるし、指示通りの行動をして感染したなら「しょうがないから、面倒見る」と言うべきだと思います。

 

そんな中「要請」をするお偉いさんを見て、私は「お願いしたからね。あとは自分たちの責任だからね。」と言われているようにしか感じませんでした。

たとえ自粛して感染しても、責任は私たち個人の責任になるような表明をするこの国を、私たちは信用していいのでしょうか?世界的な問題を「要請」で済ませるのは、いかがなものか。

 

もちろん、行政の仕組みや知識が少ない私の意見なので、「いろいろ事情がある」と言われれば、きちんと聞かないといけません。しかし、その事情やらなんやらを、国民みんなが理解できるように説明することが、トップの務めではないかと思います。

しがない市民のしょうもない意見かもしれませんが、今回のコロナに関する行政の対策には、私は不満があります。

 

 

 

 

 

 

 

もう、残念ながら、自分の身は自分で守るしかないのです。

どうしたもんかね。

相談することは勇気がいる

今の時代、児童福祉のみならず、様々な機関で電話相談やメール相談の窓口が設けられています。

窓口が多く存在することは良いことです。どんな人でも、相談できる場所がある。それだけで救われる人も少なくありません。しかし、知らない人に相談すること自体、かなり勇気が必要なことなんです。

 

 

相談するということは、それだけ悩んでいることがあるのです。そして、悩みを打ち明けた時、相手のリアクションが怖いものです。

 

 

悩みなんて、人間生きていれば少なからずあります。特に、家族のことなんて、全く悩みがない家庭の方が少ないのではないのでしょうか?

 

私は仕事柄、他人から相談を受けることが多いです。子どものこと、子育てのこと、家族のこと等々あります。

もうほんと、みなさん本当に子育てについて悩まれていて、行政に相談した時にはすでに課題が何重にも積み重なっていることも少なくありません。

 

 

相談を受ける側として意識しているのは、「相談できたことがいいことですよ。」と伝えること。そして、一緒に解決法を考えることです。たとえ、相談者に実際に支援できることがなかったとしても、考えることはできるはずです。

 

 

 

人間の悩みなんて、一発で解決する特効薬なんかありません。試行錯誤を繰り返してなんとかかんとか乗り越えていくものです。だから私は、相談者の気持ちに寄り添い、あーだこーだ話し合って、協力して考えることが、正しい道のりだと信じています。